気づけば,学会の理事・幹事・評議員といったボランタリーワークの役職を6つほど引き受けていた。そして,一般社団法人を設立して代表として運営もしてきている。その他にも,大学での公務や研究,教育実践に加え,次々と舞い込む依頼に「必要とされている」という感謝の念が湧く。経営学的に見れば,こうした無償の関与は社会資本(ソーシャル・キャピタル)の醸成そのものであり,組織や社会に対する重要な価値提供の形である。
振り返れば,若手の頃は,あらゆる機会を学びと捉えてがむしゃらに役割を引き受けてきた。学会運営の舞台裏に触れることは,学術的ネットワークを広げるだけでなく,組織の動かし方や合意形成のプロセスを学ぶ「生きた教科書」でもあった。この時期にボランタリーワークを通じて注いだエネルギーは,現在の私の研究や教育の確かな礎となっている。若い世代にとって,こうした場への参画は,自身の専門性を社会に開き,新たな紐帯を築くかけがえのない投資となるはずだ。
しかし,一定のキャリアを積んだ現在の私に突きつけられているのは,当時とは異なる次元の課題である。それは「余白」と「選択と集中」のバランスだ。深い思索や革新的な価値創造には,精神的な空白が不可欠である。全方位にエネルギーを分散し続けることは,長期的には質の低下を招き,結果として学会や社会への貢献を損なうリスクを孕む。
経営倫理の視点から考えれば,ボランタリーワークの持続可能性は,個人への依存ではなく「循環」にこそ宿る。若手が実践を通じて成長し,中堅・シニアがその成長を支えつつ自らは新たな価値創造の余白を作る。この新陳代謝こそが,学会というコミュニティを健全に保つ倫理的スキームだと考えられる。
そう考えると,「余白」を確保することも,一種の倫理的責任となる。ジレンマの中で揺れ動く自分を認めつつ,いかにして個人のボランタリーな精神を組織全体のエネルギーへと変換し,次世代へバトンを繋いでいくか。最近,仕事,ボランタリーワーク,余白,というものを改めて考え直している。皆さんと議論してみたい論点なのである。
2026年4月10日
(関西大学商学部教授)